手段を選ばぬ自国第一が米国の本質(9月11日付朝刊6面「9・11、癒えぬ『超大国疲れ』に思う)

18年前の9・11、私は駐在でマンハッタンのオフィスにいた。乗っ取られた飛行機の突入は見なかったが、オフィスの窓からはツインタワーが煙を上げているのが見えた。その光景よりも、私の記憶に強く残るのは、その日を境に一変してしまった米国社会の様子だ。愛国的な歌がテレビやラジオで流れ、追悼番組が続き、家々の軒先には星条旗。政治家は口々に報復を叫ぶ。冷静な意見や政府に反対する意見は言いにくくなり、アフガンやイラク戦争への突入を熱狂的に支持した。しかしいずれもが泥沼の長期戦に陥り、イラク侵攻の根拠とされた大量破壊兵器の存在は、結局誤報だった。戦争に引きずり込まれるとはこういうことなんだと、背筋が寒くなったことを記憶している。
このコラムは、米国が世界の盟主としての責任を果たすことに倦怠感を覚える「超大国疲れ」を患っているとしているが、ちょっと違うのではないか。アメリカは自分は世界の盟主であると信じており、自分に挑戦してくるものは叩きのめそうとする本能を失っていない。ただその方法論が変わってきているだけだ。第二次大戦に勝利し、政治的にも経済的にもアメリカが世界の超大国であることが明確になって以降、アメリカはむき出しの暴力=軍事力のみでなく、民主主義や自由主義経済体制など、自らが体現する価値観や制度体制を世界に広げることで、価値観とルールに基づく統治を目指した。しかしそれはあくまでもアメリカに反抗しなければという条件つきであり、無条件の民主主義を認めてきたわけではないことは、民主的に選ばれた政権を謀略と軍事力で転覆したチリの例を見れば明確だ。
ところが21世紀になり、政治的にも経済的にも米国一強は崩れて、自らが広めた価値観やルールに従っていられなくなったのが現局面だ。そこで出てくるのが地金としての、剥き出しの米国第一主義と軍事力、力による統治だ。決してアメリカは超大国であることに疲れたわけでなく、煩わしいルールに従って超大国の地位を維持するのに疲れただけだ。

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